西洋哲学史 近代から現代へ (20170508) 岩波新書

「西洋哲学史 近代から現代へ」著 熊野純彦 を読んだ。

 

あらすじ

はたして「神は死んだ」のか。言葉はどこまで「経験」を語りうるのかーデカルト以降の西洋哲学は、思考の可能性と限界とをみつめながら、自然哲学の発展や世界史的状況と交錯しつつ展開していく。

 

私は哲学に関して、全く知識を持っていないので、出てくる新しい言葉は何を意味するのか、ページをめくる度に手がとまった。しかし、止まる度に頭を回転させた。この本では、哲学者の考えがどのようにして確立したのか、(デカルトスピノザ、ロック、ライプニッツ、etc)の考えを再構成していくことができる。それがこの本の魅力であると思う。

 

 

西洋哲学史―近代から現代へ (岩波新書)

西洋哲学史―近代から現代へ (岩波新書)

 

 

個人的に

私が、思ったのは、神は補集合的存在なのかということである。そう思ったのは、

「物体とは、<延長>、空間的ひろがりであり、その究極の本性においては量としてとらえうる<延長する実体>である」

「それでは、私とはなにか。思考するものである。」

この二文は、「思考するもの」と「延長するもの」を表している。そのうえで、デカルト形而上学はこの二つには実在的な区別があるとしている。この区別は神の存在によって維持されているという考えだ。存在する神の関与によって、「思考するもの」と「延長するもの」に分けられている。後から、神の存在をくっつけたような都合的解釈をしているように感じた。

神が存在する理由は、有限な存在である私が無限なものの観念をつくりだせないからである。神という「ある無限で、全知、全能な」な観念が無限なものの観念が存在することを可能とする。二元論は神の存在が前提である。

 

ある塔を遠くから見てみると、傾いているのに近くから見てみるとまっすぐ立っているように見える。その感覚はいつも正しいものなのだろうか。そこから、感覚を疑い始め、徹底的に正しいものを探求していく。

 

<なにかが存在することは、それ自体としては偶然である>