雑記

 亀岡暴走事故からはや五年が経つ、今日この頃である。先日読んだ新聞の中に「遺族の叫びは亡き者の叫び」という記事を見つけた。遺族の方が次のように述べた。

 

亀岡暴走事故は、無免許運転の軽自動車が集団登校の列に突っ込み、10人が死傷し、当時大きなニュースになっていた。そして、この事件をきっかけに悪質運転による罰則はより厳しくなった。しかし、被害者の方は改正した法においても依然として、加害者の抜け道が存在するという。現在、被害者の方が会を立ち上げ、事故防止の啓発や悪質運動の厳罰化に向けた講演を行っている。

 

 

個人的に

嫌な思い出を忘れるには考えないことが一番だと思うが、会を立ち上げて訴え続けるということはその逆の行為である。その辛さは当事者になってみないと本当のところは分からないかもしれない。また、何かを乗り越える時は、そこにある問題を認知せずしてできないことだと私は考える。

亡き者が被害者に悲しんでいてもらいたいのかというと、それは違う(不快に思われたら、申し訳ない)。家族が亡くなり、悲しみ、怒りのそぶりを見せなかったら今度は世の中から薄情に思われてしまう。あらゆる問題はすべて対人関係の問題であるというのが私の持論だ。しかしこれは本当に誰の意志による問題なのか?と思った。