夜と霧  みすず書房 著 V・E・フランクル

 

名著の新訳には、つねに大きな期待と幾分かの不安がつきまとう。訳者や版元の重圧も察するにあまりあるが、その緊張感と真摯さのためか、多くの場合成功を収めているように思われる。本書もまた、その列に加わるものであろう。

   ユダヤ精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった本書は、わが国でも1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。著者は悪名高いアウシュビッツとその支所に収容されるが、想像も及ばぬ苛酷な環境を生き抜き、ついに解放される。家族は収容所で命を落とし、たった1人残されての生還だったという。

   このような経験は、残念ながらあの時代と地域ではけっして珍しいものではない。収容所の体験記も、大戦後には数多く発表されている。その中にあって、なぜ本書が半世紀以上を経て、なお生命を保っているのだろうか。今回はじめて手にした読者は、深い詠嘆とともにその理由を感得するはずである。

   著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。というよりも、むしろ人間を解き明かすために収容所という舞台を借りているとさえ思えるほど、その洞察は深遠にして哲学的である。「生きることからなにを期待するかではなく、……生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題」というような忘れがたい一節が、新しくみずみずしい日本語となって、随所に光をおびている。本書の読後感は一手記のそれではなく、すぐれた文学や哲学書のものであろう。

   今回の底本には、旧版に比べてさまざまな変更点や相違が見られるという。それには1人の哲学者と彼を取り巻く世界の変化が反映されている。一度、双方を読み比べてみることをすすめたい。それだけの価値ある書物である。 (大滝浩太郎)

 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

ポイント

・収容されて、今を生きることしか考えられない精神状態へ

・目的を持って生きることが長く生きる術

・生きる意味への問い

・自由になって残る不満

 個人的に

 初めて「夜と霧」を読みました。P160と短い本でしたが、対照的に中身が深く、一回読んだだけでは理解できないと感じた本書です。収容所での単なる体験談に終わらず、医者として、自身や他者の精神分析を行ったとのことです。

 収容所生活への被収容者の心の変化として三段階に筆者は大きく分けています。

① 施設に収容される(もしくはそれ以前)

② 収容生活そのもの

③ 収容所からの出所、解放

それぞれの説明は本書にかかれているので、説明を省きますが、当時いかに凄惨な現場であったかは、文脈から読み取ることができます。例えば、過酷な収容所生活は、多くの人の内面生活を幼稚化させて、感情が麻痺させました。それは、被収容者が、この労働はいつ終わるのだろうか、いつまで続くのかと、暫定的期間を知らずに労働を強いられるためでした。そのことが、今をどう生きていくという思考のみに限定させ、未来を考えられなくなる状況を作りました。心によりどころがなくなった人間、つまり目的を見いだせなくなった人間は厳しい収容所生活では生きる意味を実感できないがために、長くもたなかったのでしょう。

  最近の売れ筋に、「君たちはどう生きるか」がありますが、その本が求められる背景はなんでしょうか? 例えば、与えられた仕事をこなし、歳を重ねていくという生に何の意味があるのかが、分らずに生きている方がいるということが考えられます。(単調な思考ですが…)生とは何か? 振り返ったときに、自分に残っているのは何か?生きることは、常に具体的なものであるという言葉を残して、終わりにします。

メモ

題名「夜と霧」の意味:

 夜陰に乗じ、霧にまぎれて人々がいずこともなく、連れ去られ、消え去った歴史的事実の言い回し

本タイトルのドイツ語

「EIN PSYCHOLOGE ERLEBT DAS KONZENTRATIONSLAGER」(心理学者、強制集容所を体験する)

本名での出版

本当は被収容者番号で出版される予定でしたが、匿名では信頼性がないとのことで、本名で出版されました。

 

( ^^) _旦~~

 V・E・フランクルアドラーフロイトに従事し、精神医学を学んでいたとされています。文章を読むと、アドラー心理学でいう目的論と原因論が著者の考えの背景に伺えます。