であるの論考から導けるもの

「である」から「べし」をどのようにして導出できるか?

今回取り扱うのは 評価を含まない文から評価を含む文章を推論する、その流れの部分だ。

 下記に引用するのはアメリカの哲学者である、ジョン・サールが「自然主義の誤謬」という通説を打ち破る論考のアレンジだ。

 

 

言語行為―言語哲学への試論 (双書プロブレーマタ)

言語行為―言語哲学への試論 (双書プロブレーマタ)

 

 

     

※1 始まりの文は事実である。

※2   条件:事実の記述(しっかり聞こえる所で発言している.etc)

※3 「特別な事情」とは、中身が同じ福袋なのに値段は一方が500円、もう一方が1万円なので500円の福袋がよく売れるなどのことだ。他の事情がなければ安い500円の福袋がうれるだろう

 

 

1 夏目漱石は言う。「野口英世さん、私はあなたに千円支払う約束をいたします」

1-A 条件の下で「野口英世さん、私はあなたに千円支払う約束をいたします」という言葉を発する者は全員英世に千円払う約束をしている

1-B 条件は成り立つ

           ↓

2 夏目は野口に千円払う約束をした。

2-A 約束とは、約束したことに対して義務を背負うことである

           ↓

3 夏目は野口に千円払う義務を引き受けた。

3-A 特別な事情はない

3-B 特別な事情がなく、義務を引き受けたならば、義務を負う

           ↓

4 夏目は野口に千円払う義務を負っている

4-A 特別な事情はない

           ↓

5 夏目は野口に千円払うべきである。

 

 

まとめ

 この推論ができると、論理学によって倫理学もまた推論できるということを意味する。ただし、「特別な事情はない」という言葉の中に評価が含まれていないかについてよく吟味する必要がある。